南場智子さんの略歴
1962年新潟生まれ。新潟県のトップ県立高校である高等学校を卒業後、父の影響を受け女子大である津田塾大学学芸学部に進学。津田塾大学在学中、成績1位の学生のみに与えられる奨学金を受け、アメリカ名門女子大であるブリンマーク大学へ留学。1986年、津田塾大学を卒業後、マッキンゼー日本支社に参画。
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マッキンゼーを一度退社後、1990年ハーバード・ビジネス・スクールにてMBAを取得、帰国後にはマッキンゼーに再参画し、パートナーに昇格。1999年、マッキンゼーを退社しディー・エヌ・エー(DeNA)を設立。近年では内閣IT戦略本部員、規制改革・民間開放推進会議委員を歴任するなど政策提言にも尽力。
南場智子さんの信念・習慣
南場智子さんは、「苦境に陥った時に陰でなく陽で乗り切ること」を信念としていると語っていますが、加えて「決断すること」、「後悔しないようにすること」を意識して生きていると語っています。
非常に古典的で厳格な父親に育てられたことで南場智子さんは、「大学生まではずっと父の言うとおりに生きてきた」と振り返っています。加えて名門校で学び、マッキンゼーに就職した自分について「私はいつも自分以外の誰かの尺度で決めていた」と内省的に評しています。
マッキンゼーでのコンサルタントとしての習慣により、DeNA創業後、南場智子さんは会議で「選択肢A、B、Cのうちどれが良いですか?」と問いかけてしまうようなシーンもあったようです。当時の部下からは、「経営者としては決めてほしい」という指摘もされながら、徐々に経営者として決断していくことを身に着けていかれたようです。
そんな南場智子さんは決断に悩むことも多いようです。そこで南場智子さんがたどり着いた結論は、自分の腹にどうしたいかを聞いた上「エイヤー」で決める。その上で社員に対して「正しい選択をしようとするより、その選択は正しかったと思えるようにしよう」と日々語りかけるようになりました。その選択が最高のものだったと言えるように、「その場で決める」、「早く決める」ことで成功に向けた努力を早く始めることを重要視しています。
一方、コンサルティング時代には「もっと調べてから」という場面が多かったと回顧されています。
(余談ですが、筆者も「もっと調べてから」といってしまいがちなコンサルタントでしたが、最近のコンサルタントは徹底的に教育されているからか「もっと調べてから」という人が減った気がしますね。)
南波智子さん人生
どんな学生であったか
地元・新潟で石油卸業を営む経営者で、まさに「ボス」的な存在である父親(勝男さん)のもとで育ちます。父が「ダメだ」といえば、家族全員が言いなりになってしまうような環境だったそうです。
南場智子さんの父親は「宿題なんてするな、バカになる」が持論で、南場智子さんは先生に叱られてばかりでした。門限も午後6時と厳格で、帰宅時間が遅いことが理由で水泳部を退部させられてしまったり、模試を受けられなかったりしたこともありました。子どもの頃、友達の家に泊まりに行ったことさえありませんでした。
南場智子さんはそんな父親から離れるため、高校3年生の夏、母と一緒に「東京の大学に行かせて下さい」と直談判します。父親には一度「新潟大に行きなさい」と一蹴されてしまいますが、母親の説得もあり、「郊外の女子大であり、寮もあるなら」ということで、津田塾大学英文学科への進学を認めてもらいます。その時南場智子さんが父親から出された条件は、「学生運動をするな」「就職は父の言う通りに」「ボーイフレンドを作るな」というものでした。
大学進学後も「父が見張っているのではないか」という恐怖を感じていた南場智子さんは、津田塾大学から奨学金をもらい姉妹校であるブリンマー大学に大学4年生の夏から10ヶ月間留学します。人生で初めて自由になれたという米国留学で少し自信を得られたと振り返っています。そして1986年、周囲が就職活動真っ最中の大学4年の春に帰国します。
帰国後、マッキンゼーに就職した大学の憧れの先輩から「試験を受けにおいで」と誘われたことがきっかけとなり、マッキンゼーに入社します。マッキンゼー試験を受ける際はコンサルティング業界が何なのか全くわかっていなかったようです。マッキンゼーの説明会に行くと立食パーティー形式で、マッキンゼーの社員はキラキラと輝いて見えた、マッキンゼーは当時から競争力が高く「みんなが行きたい会社なら良いところなのかな」というのがきっかけでした。
また男女雇用機会均等法成立直後で、日本企業は女性総合職といっても形だけの企業が多い中、外資系のコンサルティング会社であれば、男女別け隔てなく仕事に打ち込めるのではないかという期待があったこともマッキンゼーを選んだ理由でした。
20-30代をどう過ごしたか
仕事の内容も進め方も全くわからない状態で飛び込んだマッキンゼーでの生活は大変苦しいものでした。毎晩2時間睡眠で3-4時まで仕事をし、終いには倒れて病院で注射を打ったこともありました。
持ち前の根性で乗り越えようとしましたが2年間で疲れ果て、ハーバード・ビジネス・スクールの入学試験に合格しマッキンゼーを退社しました。
卒業後はニューヨークの投資銀行への入社を検討も、母が難病になったこともあり、帰国してマッキンゼー日本支社に再入社。再度試練にぶつかり、転職まで決意しましたが、最後になるはずのプロジェクトで評価されどんどんプロジェクトを任されるようになります。
1997年からはDeNAを創業し退社するまでの3年間、マッキンゼー日本支社でパートナーも務めました。