5人目はあらゆるモーターを製造する日本電産を創業した永守重信さんです。
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永守重信氏の略歴
1944年京都生まれ。1967年職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)電気科を卒業後、2社での勤務を経て、1973年、小部博志(現副会長)らとともに28歳にして日本電産株式会社を設立し、自身は代表取締役社長に就任。1980年代から、不振企業の積極的なM&Aによる再生により、世界一の総合モーターメーカーに成長。1988年創業15年で大阪証券取引所2部に上場(98年より、大証1部に昇格、東証1部に上場)。2001年にはNY市場にも上場を果たした。
カリスマ経営者としての評価は国内外で高く、2006年に米バロンズ誌による「世界のBest30 CEO」、2014年には日経ビジネスによる「社長が選ぶベスト社長」で1位に選出。2018年にはハーバード・ビジネス・レビューによる「世界のベストCEO」にて30位に選出。
2018年に日産出身の吉本浩之氏を新社長とし、自身は会長兼CEOへ就任。吉本新社長の下には、片山幹雄氏(シャープ元社長)を副社長に据え、集団指導体制による本格的な事業承継を推進。しかし、業績不振を理由に2020年4月に吉本社長、片山副社長を降格させ、吉本社長と同じく日産出身の関潤氏を新社長に迎えるなど、後継者選定は迷走気味。
永守重信氏の著書
永守重信氏は人材育成を「人づくり」とし、私財で大学経営に参画されるなど、教育・育成に並々ならぬ情熱を注いでいます。「情熱」「熱意」「執念」を基本とし、学歴・年齢などに拘泥しない人材登用・育成には定評があります。
永守重信氏の代表的著書である、「人を動かす人になれ」、「情熱・熱意・執念の経営」などは永守重信氏の価値観そのものを表した書籍と言えると思います。
永守重信氏は、自身の愛読書として、「成功の実現」を挙げています。30代からの愛読書であり、「仕事で迷いを感じるたび14-15回は読んだと思う」とインタビューで語っています。
永守重信氏の価値観
永守重信氏は経済的に貧しい環境で育ったこともあり、昭和時代のハングリー精神の塊のような経営者です。1日16時間、土日も働かれており、毎朝5時50分に起床し、7時前に出社する生活を送られています。自身が日本電産を創業する際に、創業に反対していた母の「人の倍働くなら起業しても良い」という言葉を励みにしていたようです。中小企業として始まった日本電産が大手競合企業と伍して戦っていくためには、大企業でも中小企業でも平等に与えられている「1日24時間」という時間をいかに使うかを強く意識しながら、経営者業を務めてこられました。
仕事に没頭していることから、規則正しい生活を送ることも強く意識されています。自宅には宿泊するのは年間60日しかないということもあり、45歳でそれまでビール1ダース飲んでいたという酒をやめ、退社時間も20代の24時をピークに、30代は23時、40代は22時、50代は21時、60代は20時と1時間ずつ早めているようです。趣味に没頭することもなく、「こんな人生でいいのか?」と思うこともあるようですが、一代で1兆円規模の会社を作るには、そこまで必死に働く必要があったと述懐しています。
永守重信氏は、「困難は必ず解決策を連れてくる」という言葉を座右の銘にしています。困難からは逃げたくなることもあるが、困難は背中に解決策を背負っている。困難から逃げていると、解決策までもを逃してしまう。そんな考えを社内で説いています。
永守重信氏の人生
どんな学生であったか
永守重信さんは、父親を早くに亡くし、兄夫婦に育てられました。兄夫婦は経済的に厳しかったこともあり、中学卒業後は就職するように言われていたと言います。しかし、学校の成績が常にトップであったことから、先生が永守重信さんの将来を考え、兄夫婦に「奨学金を使って、工業高校に進学させてはどうですか」と兄夫婦を説得しに来たようです。
結果的に、奨学金で足りないお金はアルバイトをしながら補填することで、工業高校へ進み、国の支援も受けながら大学に進学しました。
20-30代前半をどう過ごしたか
大学卒業後、永守重信さんは2つの会社で計6年間サラリーマンとして働きます。そこで得た貯蓄と値上がりした自社株を元手として、1973年に日本電産を設立します。母からは「そんなことはやめておけ、せめて私が死んでからやってくれ」と大反対されたようです。
当時付き合っていた奥様には、「世界的な企業をつくる。あなたの人生もすばらしいことになるよ」とデートでも新会社の組織予定図をひけらかしたりしていました。現日本電産副会長で、創業メンバーの小部博志さんにも、自身の構想をまとめたノートを見せては、何の根拠もない法螺を吹いていました。
30代後半以降をどう過ごしたか
日本電産は、バブル崩壊後の1990年代に飛躍的な成長を遂げます。その手段はM&Aの活用でした。バブル崩壊後に経営不振に陥った優良企業をM&Aにより傘下におさめ、子会社としてバリューアップさせることを繰り返し、世界トップシェアのモーターメーカーへと成長させます。
日本電産が誇る数ある成功M&A案件の第一号は、1884年、アメリカコネチカット州にある冷却用の軸流ファンを製造する会社でした。当時は海外M&Aに取り組む会社は数少ない中、売上数億円の日本電産が海外M&Aに乗り出したことで日本電産の名前が一気に知れ渡りました。
永守重信さんは「人心掌握」という言葉をよく使います。永守重信さん自身も、M&Aにおいては自ら現地に乗り込み、陣頭指揮を取った上、M&Aの対象外社を新たな成長軌道に乗せて帰ってくるというプロセスを続けています。さらに公開会社のM&Aにおいては、私財を投じて必ず個人筆頭株主となりリスクを取るなど、人のこころを動かす経営者であり続けています。